□□□ □□ □ |
|
||
|
いることの苦しさ、いないことのもどかしさ 手を伸ばしても届かない場所にいる相手の名を呼ぶが、絶対に振り返らない。 声は届く距離のはずなのに…。 何度も何度も名前を呼べば呼ぶほど遠くなっていく。 「シンちゃん、シンちゃん!」 体をゆすられ目を開けると、パジャマにカーディガンを引っ掛けたグンマが覗き込んでいた。 日付が変わる寸前に帰宅して、ビールを冷蔵庫から出してテレビを見ながら一本あけたところまでしか記憶がない。残っている空の缶ビールの本数も一致している。 つまり今の時間まで居間のソファの上で寝ていたのだ。 「……オレ寝てたのか」 「うん。怖い夢でも見ていたの?すごくうなされてたよ」 時計を見ると二時半。 「…覚えてねぇ……」 「とりあえず部屋に戻って寝なよね。風邪引くよ」 「グンマ…」 「なあに、シンちゃん」 「オレ……何か…言っていたか?」 テレビを切ろうとリモコンを探していたグンマは一瞬動きを止め何か考えたようだったが、すぐに顔を上げて答える。 「何も。あーとかうーとか唸っていたけどね」 シンタローは確信した。グンマは偶然おきだしてきたのではない。 自分を心配したのか、もしくはうわごとに気づいて駆けつけてきたのだ。 ここ数日酒の助けを借りないと眠りにつけないことが多かった。 自宅に戻って、父のサイドボードから失敬した極上の酒を部屋で引っ掛けてベッドにもぐりこむが、結局訪れるのは浅くて短い眠りだけ。 総帥室の横の仮住まいでも同じだった。 最初はほんの少しだった量が見る見るうちに増えていった。 「シンちゃん?」 グンマの声に顔を上げると、目が合った。 寝起きで充血している目の中央で揺らめく不思議な青。 地上で、青の一族しか持たない不思議な青の瞳。 その青を見るとどうしても思い出してしまう。 数ヶ月前に袂を分かった一族の一人を。 「大丈夫だ。部屋に戻って寝るから」 「ん、おやすみ。あまりムリしないでよ」 今ムリをしないでいつする!? そういう風に鼓舞してきた結果がこれか。 次々と報告される戦況の悪化。 ガンマ団が密かに保有、投資している企業の株価の下落。 ハーレムがたった三人の部下を引き連れ出て行ってから二日も経っていないのに、世界はシンタローに牙をむいた。 『これが世界の評価だ』 デスクの書類を握り締めた自分に父が淡々と告げた。 『つまりオレはハーレムがいないと…何もできないというのかよ』 『私はそうは思わない。だが、世界はそれを不安要素とみなし、付け込む好機とみなした』 トーキョーに続きロンドン、ニューヨークでも株の下落は続いているという報告が秘書から新たに告げられた。 『たった四人で何ができるというんだ、あの叔父貴にっ』 だがそのたった四人が巨大組織のガンマ団を震撼させ、隙あらばという輩を暗躍させた。 『今おまえとハーレムが袂を分かったことを知られるわはいかない。それは分かるよね?』 ハーレムを追い込んで敵国に駆け込ませさせないように…敵に抱きこませないように…シンタローは秘書に特戦部隊の掃討捕獲作戦を取り下げるように命じるしかなかった。 子供の頃、たまにハーレムが訪れた時にはグンマと先を争ってかけつけ、その大きな体躯によじ登って遊んでいた。その度に叔父は逃げ出そうとしては子供に追いつかれ、憎まれ口を叩きながらも眼は笑っていて…そして大きな肩に載せてくれた。 …今いるこの居間で。 手放しに同じ道を行くと信じていた自分が甘かった。 叔父をひれ伏せさせるつもりなどなかったし、色々と教えてもらいたいこともあった。 どうしてこんなことになったのだろう。 「何故だ…何故オレではダメなんだ」 再びたったで一人残された居間のソファに沈み込みながら顔を覆う。 未だに自分は叔父を下から見上げている子供で、上から手を差し伸べられるのを待っていたというのか。 対等の高さで手を差し伸べ握ることができるには…まだまだ高くて……。 訪れた眠気にとらわれる前…遠くに去ろうとする大きな背中と黄金の髪が目の奥でちらついて……それに目がくらむと同時にシンタローは眠りの淵に突き落とされた。 下の方でいきなりドスンという音がしたので見下ろしてみると、子供がしりもちをついていた。 黒い髪の五歳くらいの男の子だった。 前の方から走ってきた者にさえ興味がないというのは…自分は余程重症らしい。 これが三ヶ月前だったら、相手が子供だろうが老婆だろうが銃に手をやっていたところだったのに。 走るのに夢中で前を見ていなかった子供は、助け起こさなくても一人で立ち上がり、にまっと笑った。 「おじさん、ごめんなさい」 「おう…」 ハーレムが怒っていないと分かると、子供はまた慌しく走っていく。あの調子ではまたどっかで誰かにぶつかっているだろうなぁ…と思いつつハーレムはタバコを取り出した。 黒い髪、黒い瞳の子供はこの界隈では珍しくはない。 華僑の町では住民のほとんどが黒髪と黒い瞳で、自分のような金髪碧眼の方が珍しい方だ。 繁華街に向かう道からちょっと入りこんだこの場所に来たのは偶然だった。 いかにも下町という風情の場所で、夕方の今人の往来は多い。 大半は家路に着く女子供だ。おかげで自分はあまりにも悪眼立ちしすぎていた。 道行く者が避けて通る中、ぶつかってきた子供の神経の図太さをこの場合褒めるべきなのだろうか、それとも何も考えていないだけだろうか。 「あまりにも無用心ではないですか?」 一緒についてきていたマーカーはあっさりと子供にぶつかられた自分を呆れているようだった。 「ガンマ団の刺客にしちゃあ抜けすぎだ」 「ですが…もう少し用心してもらいたいものです」 こんな身になっても着いてきてくれている部下に、煩いだの放っておいてくれだの言う気はなかった。 何故ならさっきの光景に一瞬心を奪われていたのが原因だったから。 二人の兄の子供たちがまだ幼い頃、たまに実家に戻ると二人して揃っていることが多かった。 年に一度か二度しかない数日にわたる滞在期間の間、蜂の巣をひっくり返したような騒ぎがチビどもが起きている間ずーっとまとわりついていた。 『さっさと寝ろ。叔父様にも休憩というものをくれ』 昼寝しようという気のないシンタローとグンマを両側の小脇に抱えて部屋に連れて行けば二人はキャッキャッと声を上げて喜び、ベッドにもぐってもスプリングのきいたマットレスを揺らして遊ぶばかりだった。 そして急におとなしくなったと思ったら二人して寝ていた。 戻ってきた兄に、特上の酒を振舞わせながら昼間のことを愚痴ると、子守を押し付けた張本人は『おまえたちの子供のころとなんら変わりないよ』と笑うだけだった。 その子たちが時代を継ぐ時がが来た、と告げられたのはあの時。 あの時ルーザーの体を得た青の番人に嫌悪と激しい憎悪を感じながらも手も足もでなかった自分たちの代わりに、硬直していた事態を切り開いたのはグンマの一言だった。 ああ…思えばあの時からこうなることは分かっていたのかもしれない。 シンタローという何者でもなかった、そして何者にも化けれる可能性をもった男が再び舞い降りた時…青の運命に囚われる自分たちの時代は終わったのだと。 それから青の運命は変わりつつある。シンタローたちが変えようとしている。 だが、自分は? 数年で何が変わる? 歴史の舞台から退場した兄のように見守ることはできない。 長兄の絶対的な力の抑制はもはやない。次兄への恐怖もない。 青の一族の宿命に従う必要もない。破壊と狂気の時代は終わったのだ。 だが、身内に巣くう狂気の歴史と流れ続ける血はそのままだ。 誰がこの狂気と渇望を制し癒せる? 自分が自分であるために飛び続けていた翼を捨てどこへ行けというのだ。 「てめぇにゃ無理なんだよ」 口から出てきた言葉に自分で驚き、目を見張る。 マーカーの不安そうな目と視線が合い…気にもしていなかったことを口にてごまかす。 「ここいらでおいしい酒ってのはどんなんだ?」 マーカーからいろいろと種類や味について説明が始まったが、結局ハーレムの耳にはいってすり抜けるだけだった。 足元の次第に長くなりつつあった影はいつしか周りの闇に溶け込んでいった。
|
|
|
|
□ □□ □□□ |