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In Norway



「隊長〜。ボーヤ冷え凍ってますよ」
 厳寒期のノルウェー沖での特訓のゴールについたリキッドを引き上げたロッドの声がした。
「息はしてるのか?」
 マーカーが救命ボートの上のロッドに向かって叫ぶ。
「してるけど…こりゃ大丈夫かな?」
 のんきな口調の割りにロッドの顔つきはいつもよりも険しく、上から見守っていたマーカーとGは、リキッドの顔色に負けないくらいに真っ青になった。
 
 引き上げられたリキッドは、医者の診察を待たなくても極度の疲労状態と低体温状態にあることが分かるほど衰弱していた。
「こりゃマズイ」
 頚動脈から脈をとったロッドは、腕組みをして見守っていたハーレムの方を振り向いた。
「暖めるにきまってんだろうが。早く中にいれろ」
 キャビンから毛布を取ってきたGは急いでリキッドを包み、そのまま抱えて行った。
 中は先に入っていたマーカーが暖房を全開にしていたが、温まるにはまだ程遠い。
 
「ロッド、酒を持ってこい。G、タオルと毛布をもっと」

 電灯の下で見るリキッドの顔は紙の様に白かった。
 一刻も早く体温を上げなければ、死神とランデブーである。

 ハーレムはコートを脱ぎ捨てる。
 それをリキツドに着せるためではない。
 彼はその下にまとっていたシャツも何もかも脱ぎ捨てると、ソファに横たわらされていたリキッドを抱きかかえた。

 冷たかった。
 まるで氷の塊を抱きこんだのような冷たさが、触れた箇所から広がっていく。
 毛布で体を覆わせたが、ハーレムの体ごと冷え凍りそうだった。
 誰が調節したのか、更に空調が強くなり、温かい風が顔にあたってきたがリキッドの顔色は白いままだった。


 北欧支部に派遣されたはいいが、特戦部隊投入を待たずして戦局はガンマ団優位に変わってしまい、結果、そこで待機になった。
 次々と入ってくる戦局からして、自分たちの投入は今回はないだろうと踏んだハーレムたちは、暇つぶしにかかった。
 さすがに作戦自体が終わっていないうちに遊びに出るわけにもいかないし、酒も飲めない。
 …となると…手軽な娯楽、ではなく、今のうちにしておくことというので、不幸な新人に白羽の矢が立った。

 ガンマ団支給の分厚い酷寒地用コートを着込んでいる四人とは対照的に競泳用パンツとゴーグルだけでクルーザーの甲板に引っ張り出された哀れな新人は、
『あっちにある大きな岩が見えるか?』
 と上司に尋ねられた。
 もう歯の根が合わない彼は『ハイ』と答えると、『じゃあ、あそこまで泳げ』と言われるや否や、返事も文句も言う暇もなく蹴り落とされた。

 距離にして5キロほどだっただろうか。
 南国の海であれば5キロの遠泳などたいした特訓にもならない。
 だが、ここは真冬の北欧。
 リキッドが聞いたら怒り狂うだろうが、この特訓はハーレムの思いつきに他ならなかった。
 それに、彼は新人の訓練というものがどういうものかということをマニュアル化は愚か、考えたこともなかったのである。
 特戦部隊に入ってきた連中は(ホモサピエンスに限るが)どこかしらで何らかの軍隊経験がありその必要がなかったせいもある。特殊能力だけでなく、いずれの戦闘能力も高い者を選りすぐっているのだから、必要とされることがなかった。
 自分が新人の時はどうだったか……思い出すのは総帥の弟にへつらうか、生意気なガキに鉄拳を…というヤツばかり。そんなハーレムが万が一マニュアルを作っていたとしても、大差なさそうだが。

 かくして『訓練よりも実戦』がポリシーとなった部隊に入隊させられたズブの素人リキッドは、生きるか死ぬかしかない状況でも、先輩の指導がよいのか生まれ持った強運なのか、逆境に強くなるようにという神の思し召しなのか分からないが、なんとか生き残っている。
 だが、戦場で活躍するというよりも、死なないために必死というのが実情。

 帰還する度に、この世界に無理やり引きずり込んだ相手を睨み付けるリキッドに、『ガキが、言いてぇことがあるんだったら一人前の働きをしてからにしろ』や『言いたいことがあるならはっきりと言えよ』 、といちいち反応していたハーレムだった。
 それに口答えするほど実力もなければ体力もないリキッドは、疲れた体を休めるのが精一杯。
 そして眼が覚めたら次の戦場へと叩き込まれる日々だった。



「隊長」
 ロッドが気付け用に用意したブランデーを差し出した。
 それを受け取ろうと手を伸ばしたところ、腕の中にいたリキッドがかすかにうめいた。
「おい」
 返事はない。
「…てめぇに半端じゃねぇ根性あんのは分かったからよ」
 酷寒の海で5キロ泳ぎ通すとは思っても見なかった。
 クルーザーの上から、灰色の波間に見え隠れする金色と黒の毛を見守りながら、ゴール地点に少しずつ近付いていくのを信じられない気持ちで見ていた。
 いつしか、暇つぶしや退屈しのぎということを忘れてしまい、ゴールに設定した岩にたどり着いたときは拍手の一つもしたくなった位だった。
「だから起きろ。オレの部下ならもう一回くらい根性見せてみろよ」
 ハーレムは受け取ったブランデーのビンを口に当てたが自力では飲めそうになかった。仕方なしに口移しでリキッドの口内に流し込んだ。
 だが、リキッドは嚥下するともできず口の端から流れた火酒が二人の肌をぬらしていくだけだった。
 ダメか…。
 クルーザーが港についてそれから病院に運ぶまでどれくらいの時間がかかるんだ。
 焦っても仕方がない。とにかく…と一口…さらに一口…と同じことを繰り返したところ、五回目でリキッドの唇が動き、喉が鳴った。
「グェッ…ウェッ」
 流れ込んできた酒に蒸せたリキッドは顔を真っ赤にし何度も咳き込む。
「おい、リキッド。リキッドッ」
 慌てて背中を叩いてさすってやると、ようやくリキッドはハーレムに眼をむけた。
「…ん…あ…天国に………のに…なんで獅子舞が……」
「あんだとぉ?」
 ハーレムの顔が、驚きから怒りに変わり、次には…リキッドの少しだけ色の戻った頬をひっぱり始めた。
「いぇっッあてっ」
「ここのどこが天国だ、あん?」
 思いっきり頬をつねられながら悲鳴を上げるリキッドは、天国に来てまで獅子舞がいたのでは自分は浮かばれない…と思った。
 ということは…。
 地獄の獅子舞のいる場所はというと…やはり現世しかないわけで。
 最後に思いっきりつねりあげるとハーレムはようやくリキッドの頬から手を離した。
「てぇ…全く何すんスか」
「文句が出てくるんだったら大丈夫だな」
 リキッドは自分たちの距離がやけに近いことに気づいた。
 よく見ると…自分が触れている温かいものとは…ハーレムの肌で、改めて見上げたところにあったのはハーレムの安堵したような気抜けしたような顔だった。
 何故こんなことになっているのか理解するよりも先に、リキッドは顔を真っ赤にしててしまった。
「もう寒くはねえみたいだな」
「は…はい」
「取り合えず向こうに行って休め」
 ハーレムの合図で、Gが包まれていた毛布ごとリキッドを抱きかかえ、そしてキャビンの奥へ連れて行かれた。


「やっぱり若いだけありますねぇ」
 熱いタオルをハーレムに差出ながらロッドが言った。
「何じじくせーこと言ってんだ」
「違いますよ。隊長の胸に抱かれているって分かった時のボーヤの反応ですって。
 見てなかったんすか?一瞬でユデダコになってましたよ」
「酒のせいだろ」
 零れたブランデーをふき取り、次に差し出されたシャツを身にまとうハーレムに、ロッドはここにきたもう一つの用件を切り出した。
「オレらの出番はもうないようですよ」
「ん?連絡があったのか?」
「はい。作戦は終了したって無線が飛びこんできましたから」
 ハーレムはタバコを取り出しながら苦笑した。
 飛び込んだのではなく、飛び込ませるようにアンテナを張っていた張本人は笑いながら続ける。
「だから、港に着いたらボーヤのご褒美に何かうまいもん食べにいきましょうよ」
「オレはサーモンステーキよりも肉のステーキの方がいいんだがな」
「いいじゃないですか。ステーキでも酒でも。たまには何かうまいもんでも食わせてやらないと、また鬼とか悪魔とか獅子舞とか言われますよ」
 さりげなく増えている悪口に、ハーレムはロッドの後頭部を小突いた。
「言いだしっぺはさっと言ってこんか」
 ロッドは、恭しく敬礼すると、急に変更になった次の予定についてここにいない同僚に告げるために、クルーザーの操舵室へと向かっていった。
 







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